18. 現代版〈お片付けのツボ〉③

“まだ使える”の沼とモノの寿命

基本、腐らないとされるモノのほうにも、寿命はあります。モノの寿命というものは、手放しのタイミングを知らせてくれる最強にして最後のチャンスなので、もっと意識すべきだとは常々思うことです。

まず分かりやすいのは、カビや汚れ、変色・変質などの経年劣化。触る勇気すら出ない状態で発見したときのショックはなかなか強烈ですが、一も二もなく廃棄処分できる点で、まだタチが良いと言えます。

厄介なのは、流行遅れや型遅れ。まだ十分使用に耐えるので、年配者に多い「もったいない」や「まだ使える」系の“魔の引き留め”に遭いやすく、手放し作業で最大の障害となります。

昨シーズンのヘビロテ服が、今年はもうアカンようになってまうのは、直感がアウトだと判断してるのに、思考がフル回転で“捨てないで済む言い訳”を探してしまうためです。
それか、買って10年程度の道具ならまだ全然使えるけど、最新型のほうが性能も使い勝手も断然良くて魅力的、という場合もよくあります。
“まだ使える”は、ひょっとしたら単純な“もったいない”よりも、ずっと悩ましいステータスかも知れません。

物持ちの良さがアダになる瞬間

身近にあるウレタン系のゴムや樹脂は、水分による劣化、即ち加水分解が最大の弱点です。
スニーカーのソール部分がボロボロになるのもそうだし、しまっておいた合皮のバッグや小物がベタベタになっててどうにもお手上げ、ってあれ悲しいですよね。
素材の中には、現在の技術をもってしてもなお避けられない、経年劣化という宿命があります。保管するのは構わないけれど、その点の認識だけは必要なのです。

最近、古いCD製品のケースに同梱された緩衝材のスポンジが劣化し、ディスク表面の樹脂層を溶かしてしまうというショッキングな事例報告が相次ぎ、問題になっています。
市場に出回り始めた頃のCDなら40年近くも経過しているはずですが、本来は開封後すぐに捨てるべき薄ぅ~いスポンジ素材が原因で完全にオシャカとは! そ、そんなあ!
すでに廃盤の貴重な音源が二度と再生できなくなったと嘆く人が続出する今、超古いCDをお持ちの方は、すぐに総点検されることをおすすめします。

ちなみにわが家でも、あるとき父所有の古いスピーカーのスポンジネットが、みごと粉末状に崩壊しました。よくマンガとかで、人や物体が黒い粉になって風で飛ばされて無くなっちゃう、まさにああいうディストピアな光景でしたね。
見えない場所のあちこちによく使われているスポンジ素材は、マジで要注意アイテムです。

物持ちが良いことは美点ではありますが、劣化しやすい素材が使われたモノは意外に短命です。経年劣化は予想しない事故を招くし、そうならずとも結局は廃棄処分せざるを得なくなります。すると、これまでの努力と時間はすっかりパアです(あえてそこまで計算して放置し、廃棄の理由にする人もいますが、あまり付き合いたくないタイプ)。

これからは、“モノ自体の寿命サイクル”という概念を、保管or手放しの判断材料の一つに加えてみてはいかがでしょうか。
限りある自分自身の持ち時間と空間を優先するには、ちょっとばかり冷酷になる必要が、やはりどうしてもあるようです。

Sheila


17. 現代版〈お片付けのツボ〉②

モノが先か、自分が先か

〈片付け〉がはかどらない理由として、価値観や性格がどうのと様々な意見が出ていますが、どれも隔靴搔痒で、決定打とするには根拠が弱い印象です。
ただ、目の前にある〈片付け〉のお悩みを解決するには、ある種の発想の転換、それもコペルニクス的転回クラスに大規模な意識の書き換えが、絶対に必要なのは確かだと確信します。

それは、
「我なきあとは、全てが遺品」になる、という考え方です。

モノを大切にする人は、全ての持ち物をとことん長く、良い状態で、整然と保管しておくことに、日々心を砕いています。もちろん、それは決して悪いことではありません。
しかし誰であれ、自分自身が終わるときは必ずやって来ます。
そうなったとき、後に遺したたくさんのモノたちは、一体どうなるのでしょう? どうなると思います??

人間が考えたくないことの一つですが、ここは見ないフリをせず、正面から直視してみてください。それが明日だろうと50年後だろうと、遺ったモノは一つの例外もなく〈遺品〉となるのですから。

持っては行かれない、それが遺品

身内で遺品整理をする場合は、いろいろな理由で普通の不用品処分の何倍もの時間と労力を要します。業者に任せればそこは回避できますが、代わりに結構な費用がかかります。
身内には迷惑をかけるけれど、こればかりは致し方ないのが遺品整理の本質なのでしょう。
元気なうちに自らで持ち物を減らす〈生前整理〉が推奨されるようになったのも、こうした現代の社会事情を背景に考えれば納得です。

市場価値や保管の意義が特になく、来歴不明で他に引き取り手もない遺品には、ガラクタと同義語で扱われる運命が待っています。持ち主自身の愛着やストーリーから切り離されたモノは、単なるガラクタに過ぎないからです。
生前によく指示しておけば、子々孫々が未来永劫、大切に保管してくれるはずだなんて期待は、だからするだけムダ。残念ですが、現実はそうそう牧歌的じゃないんですよ。

そのような未来から現在を俯瞰すると、“今とこれから”にロックオンして、自分の身の回りを自分で整えておくことの大切さが、以前よりもクリアに見えてきませんか?
〈生前整理〉ほど身構えずに、また年齢を問わず、日頃からカジュアルに習慣化すればいいだけの話です。
一見ハードな修行のようでも、自分とモノの“行く末”を意識することは、実効性ある〈片付け〉のためにはとても有意義な視点だと、私は考えます。

本当に大切なモノだけに囲まれて、豊かに生きていれば、“我なきあと”にも、ゆかりの人がその想いをきっと受け継いでくれます。
自分とモノとの一番の幸福は、そこにあるのではないでしょうか。

Sheila



16. 現代版〈お片付けのツボ〉①

大切なのは“景色が一変する”体験

今、人気コンテンツの五指に入るであろう〈片付け〉ジャンルは、不用品を手放す“引き算式”が主流です。
ただこのやり方って、これまで〈所有〉を何よりの幸せとしてきた人々が、いきなり知らんヤツから「捨てろ、手放せ!」とけしかけられたときの切ない気持ちを、あまりにも無視してます。場合によってはかえって態度を硬化させて、ゴミ屋敷化の方向に誤誘導しかねませんよ。

ガチ系手放し歴18年の私としては、皆さんここらでちょっとクールダウンして、ギアを一旦ニュートラルに戻してはどうかとか思うわけで父さん。何事も、行き過ぎは思わぬ反動を招きますもの。
まあ、とっくに飽きて忘れ去ってたモノ、壊れたり劣化したモノ、流行遅れで恥ずかしいビミョーなアイテムなどなど、掘り起こせば結構あるけど……と、現代の〈片付け〉は基本、目をつぶってこれらの品々をゴミ袋に入れちゃえばホラ、半分は完了するんですよ。

やる気が出たら、動かしにくいけど不要な家具や家電などの“大物”を、家から追い出してみましょう。重くても人の手で運び込んだモノなら、同じく運び出すことは普通にできるはず。動かせない、というのは単なる思い込みに過ぎません。要するに、おっくうだっただけですよね。
容れていたモノが消えた勢いで、存在理由の無くなった収納ケースやチェストの類もババッと消えたら、そのまますぐにどこへでも引っ越せるような身軽さを味わえます、少しだけ。

想いが重すぎて、もうね

もう一歩踏み込むなら、買いだめして“数が多すぎるモノ”を減らします。黄色く固まったラップやら変質したスポンジを大事に抱きしめてるような人には、どうかならないでお願い。
過去の年賀状や手紙、未整理のハンパな写真など、“時系列で古いモノ”も、本気で取り組めば山と積み上がったりします。

なお、厄介とされてきた書籍やソフト類ですが、雑誌はかつてほど読まれなくなり、CDやDVDが配信サービス利用にシフトしつつある昨今では、だいぶラクになったのかも知れません。

しかしだよ。そんなにスイスイ事が運べりゃ苦労はないと。捨てるか、保管か、人はなぜそこで身悶えせんばかりに悩むのか。それは、モノの一つひとつに、個人の重ぉ~い“想い”が巻き付いているからに他なりません。
ココを動かさないままで〈片付け〉するのは、服を着たまま風呂で身体を洗うのと同じくらい、困難なことなのです。
ではどうすれば? ……次回に続く!

Sheila