32. それでも電車で化粧がやめられへん人へ

ゴリ押しで手にした? 〈電車内化粧〉の市民権

Eテレ「0655」でブラマヨが歌う愉快なオリジナルソング『電車で化粧はやめなはれ』が、今朝フト頭に浮かんだのですが、……えーっ! これ初出は2012年ってマジ???

つまり〈電車内化粧〉行為の是非については、8年を経た今もなお、ヨロンが着地点を見出せていないことを意味しているわけで父さん。
毎朝の通勤電車にすっぴんで乗ってきて、堂々とひと通りのメイクを終えるあの度胸、まず絶対にHSPじゃないよねwwwww。


化粧を身支度の一環とするなら、公衆の面前(これ死語か)で着替えや洗面、歯磨きするのとどこが違うのか、長年疑問でした。身支度って基本、“自分ちで済ませる”が前提だもんね。
ところがそんなアゲインストな世間の視線もどこ吹く風、小難しい比較文化論やジェンダー論も薙ぎ払う勢いで、今や〈電車内化粧〉はそれなりに市民権を得た……と認めたくはないが見慣れた風景と化した印象は否めません。

人前での化粧行為に抵抗を感じない層が増えた原因として、思い当たることが一つあります。
現代の女性誌やネットには、メイクアップアーティストによるプロセス画像や解説動画などの情報が、わんさかあふれています。そこへ「化粧は人前でするもんじゃないよ」と教える人が誰もいなかったとしたら……
化粧行為そのものを、“ステキでおしゃれなこと”と捉える若い人が増えるのは、むしろ自然なことなんじゃないでしょうか。

今どき、女性に化粧やハイヒールを強要する職場にいるのなら、そういうトンチキな慣例を撤廃させる方向にアクションを起こすのがスジってものですが、そのテのめんどくさい話は別の機会に譲るとします。
ただ、よく聞く「残業続きで疲れてる」「化粧しないと上司に注意される」等々の主張は根本が他責志向なので、このままでは何ひとつ解決しませんよね、たぶんね。

衝撃の事実だけを述べます

電車内でわき目もふらず化粧に励む女の中には、絶対と言っていいほど、美人はいません。
本当の美人の、本当にスゴいところは、絶対に“手の内を見せないこと”だからです。彼女らは見えないところで日々研鑽を積んでいる(かどうか知らないが)のであって、オフィシャルなシーンでのタブーを決して破りません。まあこれ、戦略でもあるけど。
美人とそうでない人の差があるとしたら、顔の造作ではなく、そうした美意識の在りようとか誇り高さ、自律性に着目すべきなのです。

一方、手の内を大サービスで見せまくる〈電車内化粧〉派を観察していると、マジで例外なく、ポーチやアイテム、ツール類が汚いっ……ウゲッとなるくらい、汚っ!!
粉類は飛び散るのでケースが汚れやすいのは仕方ないとしても、彼女らはとにかく手にした道具もコスメも、すべてがいったいに薄汚れています。

それより何より、飛散物を浴びる周囲の人間の身にもなってくれよって話ですが、私物のメンテにも気を配れないヤツに、他人への配慮を期待するほうがどうかしてましたねハイ。


それから。女性は“ちょっとスキがある”くらいがモテの秘訣と言うけれど、手の内を百パー見せちゃうって、なんぼ何でも危険すぎやしませんかと。
化粧行為って、実は様々なメッセージを発しています。不特定多数の視線の中で全方位にスキを見せることの危うさを、該当する人にはちょっとでいいから考えてみてほしいのです。
物騒な事件が頻発する昨今の都会では特に、ローバ心からそう思うのです。

人前で考え無しに無防備な姿をさらすと、自分を守っているバリア=“結界”が崩れる、とも言います。
結局のところ、〈電車内化粧〉で一番損をするのは本人自身だという事実に気づいた人から、幸せになれる。つまるところは、そういうことのようです。

Sheila

31. 危険なウエ様

時代劇はなぜクセになりやすいのか

民放テレビのゴールデン枠から、時代劇シリーズを見かけなくなって結構経ちました。
国民的なテレビ時代劇と言えば、かつては平日午後にTBSが、安定の王道シリーズ『水戸黄門』と『大岡越前』を交互にオンエアしてましたっけ。そう聞いてしんみりする人は、すでに一定以上の年齢層になってしまったかしら。

ところで一時期、これら再放送時代劇が象徴する平日16時台は、別名“老人と失業者の時間”とか言われていました。マジで言い得て妙……夕飯にはまだ早い、本当にど~にもしようがないこの時間帯、家でヒマしてるのは高齢者とプーぐらいですからね。あ、もちろん自分も含めての話です。

「あれ~、これ観たことあるよな」と気づきながら、印籠出すとこが見たくて最後まで観ちゃう。大団円で終わると分かってるけど、寛大なお裁きを期待して観ちゃう。ハッピーエンドが前提だから、途中からでも安心して気軽に観ちゃう。
孤独な人の心のスキマにスッと入り込み、やがてルーティン化する……これら、クセになりやすい明るめテイストの時代劇コンテンツを、“アッパー系時代劇”と命名するぞ勝手に。

暁を蹴散らして進む、令和の時代劇

テレビの時代劇はいったいに照明が強く、画的に明るすぎておかしいという意見があります。確かに、行燈やローソクしかない時代、夜道があの明るさってウソだよね、とは私も思いますよ。
しかしそんなクレームもどこ吹く風、全編あり得ないまぶしさ&能天気な明るさで押し通す、アッパー系時代劇の金字塔、それが午前4時に復活したテレ朝〈おはよう時代劇〉枠の『暴れん坊将軍』シリーズ(再)です。

全エピソードが能天気な話ばかりではないものの、画面=“照明の明るさ”にかけては、あらゆる時代劇中で断トツなのは確かです。ウエ様という立場は、いわば王様と同じ。つまり最初から勝っているので、戦う必要がない。だから画面にも物語にも、ことさら陰影を強調する必要はない、そう言われてる気がするんですが。

個人的には、第VIII部の鶴姫(中村あづさ)とややこしくなるシーズンが、画面照度ともども最高潮に華やいだ印象を持っています。何より、ウエ様を振っちゃうスパイシーな結末が悪くないでしょ。
主演の松平 健(今ごろ言及か)は、名優というより“看板役者”のタイプ。演技力の巧拙ではなく、顔と名前でお客が入るって、これも役者としての得難い才能には違いないわけで父さん。


テレビ通の友人は、同番組の早朝再放送について「あれは危険。(最後まで)観ちゃうのよ」と真顔で評していました。
その通り、終盤の「余のカオを見忘れたか」に始まるチャンバラと、エンディングの「~と願う吉宗であった」のナレまでをセットとする暗黙の様式美に引きずられるのか何なのか、気がつくと5時のニュースワイドに誘導されてます、と、この際だから白状するね。

そうするうちに今宵もまた東の空が白々と……夜明けのウエ様は危険な香り。
そうだ、CM前のアイキャッチ。片肌脱いで矢を射るウエ様を見るたび、この頃からライザッ○やってりゃよかったのにね~、と思わずにいられない……余計なお世話すぎでしたハイ。

Sheila

30. 〈他人軸〉のルーツはこんな所にもあった

悲壮感にくるまれた女たちの持病

NHKの朝ドラは、昭和を中心とした主人公の一代記が圧倒的に多いため、戦時中の描写は避けて通れないのが宿命なのでしょう。
現在放送中の『エール』も例外ではなく、特に〈国防婦人会〉(以下〈国婦〉)という戦時コンテンツが外せない要素としてインパクトを残しました。

歴代作品を振り返っても、ジブンらしく生きたいヒロインの対立軸として、白かっぽう着にタスキがけの女性集団が登場するシーンは、もはや共通のお約束です。
全員が異様な“制服”で身を固め、華美な装いや化粧などはもってのほか、我々こそが絶対善であるとの悲壮なる信念のもと、憲兵並みに硬派な態度でゴリゴリ圧をかけてくるんですよねえ。ぐわああ。

当時、“銃後の守り”のスローガンのもとに、一般家庭の婦人がなぜああまで強固に結束できたのか、そこには尋常ならざる時代の思想統制や、ドラマ演出上の誇張表現も念頭に入れる必要はあるでしょう。
しかし視聴者をモヤッとイラっと、そしてげんなりさせるのは、毎度コワい女たちが束になってヒロインをいじめて孤立させるから、だけではありません。

贅沢は素敵なのに

あのねえみんなそれどころじゃなくてガマンしてるのに、アナタだけ何なのよ。贅沢は敵だって知ってるわよねえ。みんなお国のために必死で頑張ってるのにアナタだけ好き勝手にふるまうって、それ非國民のすることよ。ああそうなのそーいうつもりなら通報するしかないわねえだってみんなと同じにしないアナタが悪いのよ……

……何これ、何か強烈な既視感……今、マスクせずに外出しようもんなら、同じ目に遭いそうですよねえ。
つまり〈国婦〉的な活動は、戦時という狂気の時代に限った話ではなく、今でも〈国婦〉体質な人物は一定数存在する、という事実にご注目いただきたいのです。

とにかく根が真面目すぎるのは百歩譲るとしてもだよ。ルールを死守し、ちょっとの逸脱や異論も絶対に許さないって、どういう世界観で生きてるのか。連帯感にこだわって、制服だのアイテムだのの“お揃い”が好きすぎるってのも共通してるし。

そのうち無意味な暗黙のルールがどんどん増えて、自らががんじがらめになっても、誰一人異論を唱えない。果ては違反者に制裁を加えるとか暴走するあたり、ママ友やPTAの悩み相談かと思うじゃないですか。
いわゆるコロナ感染者への誹謗中傷も、あれは性別不問で“国婦病”をこじらせきった輩の狼藉と考えると納得がいくわけで。
まあはっきり申し上げて、迷惑ですよね。

社会学では、〈国婦〉的な気質はそのまま“B層”と呼ばれるクラスタに当てはまります。
テレビの報道ならほぼ信用しちゃう、セレブの薦めには秒で飛びつく、人気スポットでは何時間でもおとなしく並んで待つ……等々、いわゆる〈他人軸〉の好サンプルですね。
公権力への盲信傾向と他律性が顕著な〈他人軸〉は、まさに〈国婦〉気質のアップデート版にすぎない。そのように見えてこないほうが、どうかしてます。

〈他人軸〉が敗北を喫したあの日

戦時中の〈国婦〉メンバーが、大本営発表をどこまでピュアに信用していたかは謎ですが、ある程度意識的に「信じることにして」いなければ、強い不安のもとでモチベーションを保つことは難しかったでしょう。
ただそこを酌んだとしても、国民の大半がお上に盲従し、沈みゆく船から逃げ出すことがついに無かった過去を持つのが、日本という国なのです。あの敗戦の悔しさとやるせなさの根源は、疑念を抱きながらも〈他人軸〉な価値観にすがるしかなかった哀しき国民性にもあるように思えます。

もう一つ。当時は軍部が〈国婦〉をおだて上げて巧みに利用した側面も忘れてはいけません。言い換えれば、これほど御しやすい存在を利用しない手は無かった。ここは非常に大事な部分として強調しておきます。

そして現代の“B層”もまた、同じ理屈で常にお上からタゲられてるんだけど、彼ら彼女らはまず気づいてない。いやそれ以前に、とても忘れっぽいので、失敗から学ぶとか期待するだけムダなんですよね。

今回の朝ドラでは、俗に言う“コロナ後の二極化”が、図らずもベタな形で可視化されました。この天啓にも似た体験のおかげで、マジで1年前にすら戻りたくない、あれは戻っちゃいけない世界なのだと、心底思わずにいられない私です。

Sheila

◆参考文献:適菜 収『ニーチェの警鐘 日本を蝕む「B層」の害毒』(講談社α新書)他