28. ゾロ目の年に思うこと

Go To でGo Go!♪

9/24付の朝日新聞夕刊より。今月初め、南極の昭和基地で55年前の観測隊が残した未開封の備蓄品が、偶然発見されたのだそうです。
55年前…1965年やんか…昭和40年。半世紀余りも前のロッテガムとかコカ・コーラとか、初代デザインそのままの姿で保存されていたとは! これからタイムカプセルを埋めるなら、極地がおススメってことか。いやそれは違うな。

面白いのは、55年前のこれらの品を発見した観測隊員が、55歳だったことです。思わぬ“お宝”の発見に加え、自分の生まれ年と製造年月の一致に不思議な縁を感じます、とはご本人のコメント。
私のように数字に弱い人間でも、自分の生年月日がかぶると何かビビビッとくるものがありますよねえ。こだわりすぎる人は付き合いにくいけど、数字って何か、絶対に持ってるよね。

55年前の世相をざっくり調べると、ベトナム戦争とか、そこに紐づいた学生運動の激化等々、明るいムードはみじんも見当たらないんですよこの頃は。東京五輪の翌年って、祭りの後そのものだし。

ただ視点をずらすと、このとき終戦から20年しか経ってないことには驚愕しかない! だって2000年から20年後が今現在よ???
…そう考えると、この時間感覚と社会の在りようは一体誰が決めてるのかと。そして自分はなぜ今、ここにこうして居るのかと。

数字遊びに遊ばれない人になる

隠さずに言うと、ワタシ自身も1965年の生まれです。つまり満年齢でチコちゃん11人分。
同年生まれの有名人は、女性ならたとえば沢口靖子とか吉田美和、草刈民代、中森明菜などなど。他にアイドルデビューした人なども結構いてビミョーですが、今日も現役で主役を張れる人については、こうなったらタメの星として応援せざるを得ないわけで父さん。

男性陣なら上川隆也、杉本哲太、別所哲也、石丸幹二、仲村トオル、高嶋政宏、古田新太など。尾美としのりと香川照之は誕生日も一緒。ぐわあああ……この濃ゆい感じ、のし上がって君臨してる感ありまくり、失礼、いま今最も脂がのってる方々ですよねっ。
ミュージシャンは奥田民生、YOSHIKI、吉川晃司とか、見事にアンチだけどタメに免じて許そう(何を)。元シブがき隊の布川敏和&本木雅弘は外せないでしょう。
お笑い系は爆笑問題の二人とか、エガちゃんとか。あ、野球の古田敦也も。その他もれた人とそのファンの方、すみません。

ツラいのは、同年齢人の訃報に接することです。尾崎豊はなんぼ何でも早すぎた。
さくらももこ、有賀さつきに対しては「まだがんばれたのに」という言葉がつい出てしまうのは、皮肉というほかない。というのは日頃、「もうババアだしさあ」的な自虐でいろいろなことから逃げてる自分のクセに気づかされるからなんですよ。
そういう甘えた心がけには、ときに鉄槌が下されてもやむなしだと。

そういやヒロミゴーが55歳になったとき、「ゴ~でーす! Go Goで55歳になりましたぁ~!」とノリまくってたとか、どうでもいいことを思い出す…やっぱ実年齢より若かったわあの人。


昨今、55みたいなゾロ目の数字並びは、何らかのラッキーなメッセージを含んだ“エンジェルナンバー”としてもてはやされています。
“2020”だって2ケタのゾロ目ってことになるけど、う~ん2020…いやもう分かりました結構です級に強大なそのメッセージ、確かに世界中で受け取りましたから。

ちなみに〈エンジェルナンバー〉でググったら、各ナンバーの対応早見表まで出てきた…何これ数字の全部に意味があるわけ? ほっとくとすぐコレだからな。のめり込み過ぎると、突然何もかもが空しくなる時がきっと来ますわよ。
ただでさえ、みんながいつもよりナーバス&センシティブになってる今、心のスキマを占領されないための用心だけは、皆さまどうか怠りなく。
(文中敬称略)

Sheila



27. “繊細さ”への覚醒ブーム到来?

〈HSP〉認定で救われるのは誰か

最近、自称〈HSP(Highly Sensitive Person)〉の人が急増している傾向が気になっています。
HSPとは、ざっくり言うと感受性と共感性が非常に高く、敏感で繊細な性質を生得的に持った人のことで、1996年にエレイン・アーロン博士が提唱して以降、日本を含め世界中に広まった概念です。

社会経験が乏しく、対人関係で悩むことの多い若い人に、“繊細すぎて生きづらい人へ”というコピーがまさに救世主の声のように響いたとしても、何ら不思議はありません。
生まれ持った特性の良い面を活かして活躍しましょう、とのアドバイスも、声のデカい連中から散々な目に遭わされてきたHSPさんには、この上ない励ましになっていることでしょう。

HSPと診断できる人は全体の約2割、すなわち5人に1人の割合だそうです。これが多いか少ないかは意見が分かれそうですが、40人学級なら8人、とすると結構居るのねという感じはしますね。
ところが近年、HSPへの認知度の上昇が、「これ、ワタシのことじゃん!」との目覚めを促し、やがて我も我もと大河のごとくに広がりを見せ、結果として世の中が繊細な人だらけになってうるさいほどに感じられる印象があります。

例によって、この手の研究と真剣に向きあうには、安易なブームのお祭り騒ぎが終息してひと段落するまで待たねばならないのでしょう。
つまり、冷やかしだけのお試し会員が、このお祭りのことをすっかり忘れてくれる、そのプロセスがどうしても必要だということです。

〈自称敏感肌〉という永遠の謎

これと地続きの社会現象として思い出したのが、〈自称敏感肌〉問題です。
1990年代以降、スキンケア美容への関心が高まるにつれて、敏感肌を自称する女性が世にあふれ返った時代がありました。いえ本当なんですよ。
実際に“敏感肌用”ブランドにこだわる人や、メーカーに配合成分の詳細をしつこく問い合わせる人が増えたりなどは、日本人らしい生真面目さもうかがわれますが。

でもねーそもそも論はアレだけど、〈普通肌〉なんてものはあり得ないのが普通なの。誰でも季節や体調で肌の調子は変わるし、肌トラブルだって生きてる証拠。いろんな製品を次々と試すとか、間違った使い方でもしたんじゃ、おハダもかぶれて当たり前なんですよ。
アタシはそうじゃなかったって人、いたらゴメンね。

ズバッと言います。要するに“敏感な肌”は“繊細な人”のイメージに直結していて、そのように見られたい女心が〈自称敏感肌〉という妙ちきりんな闇を造り出した可能性は、限りなく高いのです。
“繊細な人”へのホノカな憧れが、「自分は敏感肌だと思う」の自己申告につながっていった側面は、全てではなくても確かにあったと。ただ悪気が無いだけに、そこを責めるのは酷というあたりも、この問題をいっそうモヤるものにしています。

結局のところ、何をもってして敏感肌とするのかは今も確たる基準がなく、依然として謎のままです。
HSPも同様に、セルフチェックのみの判断基準である以上は本人の自覚に依って立つ概念に過ぎず、それが説得力における限界を示してもいます。

とは言いつつ、人はどこかに、繊細さを美質と捉えて憧れる気持ちを持つのも事実。「敏感で、繊細であること」に近づきたいサガみたいなものを、無視してはいけないと思うのです。

まあ、本当の本当に繊細な人って、毎日がお辛くてそれどころじゃないはず。だからこたびのHSPブームも、多様な気質を理解する最初の一歩と解釈すれば、そう悪い流れではないと言えなくもない……って、この歯切れの悪さは何?

Sheila

26. 敵もまた細部に宿ると知った夏

マスクが露わにした、あるものの本性

春からこっち、通勤しない身分になったおかげで、服や靴、そして化粧品の消費が目に見えて減りました。
今回ほど、外出せぅず人に会わない期間が長く続いたのは自分史上初めてですが、週5フルタイムで働くことが自分にとっていかにストレス大であったか、そしてそのための経費がどれほど家計を食いつぶしていたかを知った気がします。

マスク着用が習慣化するにつれ、OLさんたちのコスメ消費も、だいぶ変化したと聞きます。せっかくメークしても覆い隠してしまうからと、リップやチークの売り上げが目に見えて落ちている現状も、まあ無理からぬ側面はありましょう。
ただね……この件については、5月に大手夕刊紙に掲載された、某オジさんジャーナリストによる記事中の表現が、今も引っかかってしょうがないのです。

要約しますと、“マスクで顔の大半が隠れてしまうのに、わざわざ「口紅を差したり、ファンデーションを塗りたくっても意味がない(原文ママ)」ので、女性が化粧をしなくなる”……まとめると何だかそのような主旨なのですが、……

またしても振り出しに戻る?化粧文化

何なの塗りたくるって。塗りたくる? 誰に向かって言ってんの。言ってること分かってんのかな。
こういうこと言う男性にとって、今でも女性の化粧行為というものは、“(美しくもない女が)化けるための姑息な手段”でしかなく、「いくら塗りたくったって大して変わらんのに、やれやれ」的な、昭和感たっぷりのサゲニュアンスが言外に透けて見えるってのがまた。

そういうワケだから、美意識の高い女性にとって重要なアイテムであるファンデも、おっさんたちからすればペンキ同様に“塗りたくるモノ”でしかないという認識で、たぶん合ってるんでしょう。
そもそも、現代の最先端ファンデがどんなものか、いやそれ以前に化粧って何なのかも知らないまま分析記事書いてる可能性大だよね。
まあ人間、思ってもいないことは絶対に口をついて出ないものだから、これで分かりましたね。リッパな政治家先生がやらかすセクハラ失言とかも、これと同じ構造ですね。

もう一つ言えば“口紅を差す”って表現、和装をしない今ではピンと来ない人が多い仕草だったりします。気になるかたは、おググりくださいませ。

年配の経済ジャーナリストに向かって、化粧文化の何たるかをレクチャーする気などこちらには無いし、専門でもない人にそこまで厳密さを求めるのは酷ってものでしょう。どれもおそらく、特に意識せずに書き流した部分だろうとは推察しますよ、こちらも大人ですから。
あーおっさん勢い余ってやっちゃった、ズレてんなあという脱力感を通り越して、もはや「さすが、そう来なくっちゃ!」の域かも知れませんが。

問題は、化粧文化や時流に対して不見識かつ鈍感なまま、知った風に古ぅーい価値観で上から断じるスタンスにある、と言いたいのです。

“塗りたくる”の表現一つにも、ここまで地雷てんこ盛りって、どうやら神も敵も共に細部に宿るらしい。価値観のズレや掛け違いは、どんなに些細であってものちのち厄介なトラブルに育つのって、誰しも経験あるでしょうに。
そのへん、自分だけは大丈夫と思わず、そろそろ謙虚に学べってことじゃないんですかね。

Sheila