17. 現代版〈お片付けのツボ〉②

モノが先か、自分が先か

〈片付け〉がはかどらない理由として、価値観や性格がどうのと様々な意見が出ていますが、どれも隔靴搔痒で、決定打とするには根拠が弱い印象です。
ただ、目の前にある〈片付け〉のお悩みを解決するには、ある種の発想の転換、それもコペルニクス的転回クラスに大規模な意識の書き換えが、絶対に必要なのは確かだと確信します。

それは、
「我なきあとは、全てが遺品」になる、という考え方です。

モノを大切にする人は、全ての持ち物をとことん長く、良い状態で、整然と保管しておくことに、日々心を砕いています。もちろん、それは決して悪いことではありません。
しかし誰であれ、自分自身が終わるときは必ずやって来ます。
そうなったとき、後に遺したたくさんのモノたちは、一体どうなるのでしょう? どうなると思います??

人間が考えたくないことの一つですが、ここは見ないフリをせず、正面から直視してみてください。それが明日だろうと50年後だろうと、遺ったモノは一つの例外もなく〈遺品〉となるのですから。

持っては行かれない、それが遺品

身内で遺品整理をする場合は、いろいろな理由で普通の不用品処分の何倍もの時間と労力を要します。業者に任せればそこは回避できますが、代わりに結構な費用がかかります。
身内には迷惑をかけるけれど、こればかりは致し方ないのが遺品整理の本質なのでしょう。
元気なうちに自らで持ち物を減らす〈生前整理〉が推奨されるようになったのも、こうした現代の社会事情を背景に考えれば納得です。

市場価値や保管の意義が特になく、来歴不明で他に引き取り手もない遺品には、ガラクタと同義語で扱われる運命が待っています。持ち主自身の愛着やストーリーから切り離されたモノは、単なるガラクタに過ぎないからです。
生前によく指示しておけば、子々孫々が未来永劫、大切に保管してくれるはずだなんて期待は、だからするだけムダ。残念ですが、現実はそうそう牧歌的じゃないんですよ。

そのような未来から現在を俯瞰すると、“今とこれから”にロックオンして、自分の身の回りを自分で整えておくことの大切さが、以前よりもクリアに見えてきませんか?
〈生前整理〉ほど身構えずに、また年齢を問わず、日頃からカジュアルに習慣化すればいいだけの話です。
一見ハードな修行のようでも、自分とモノの“行く末”を意識することは、実効性ある〈片付け〉のためにはとても有意義な視点だと、私は考えます。

本当に大切なモノだけに囲まれて、豊かに生きていれば、“我なきあと”にも、ゆかりの人がその想いをきっと受け継いでくれます。
自分とモノとの一番の幸福は、そこにあるのではないでしょうか。

Sheila



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